2015年12月28日月曜日

社会人大学院のおもしろさと複雑な医療現場

私が今働いている国際医療福祉大学大学院は、さまざまな医療のプロフェッショナルが集まるところが魅力。 そして私の担当する授業は共通科目がほとんどなので、学科を超えていろんな人たちが集まってくるからまた面白い。

年内最後の医療人類学はまさにその魅力が現れた。

講義内容は、フーコーハッキングギデンズラトゥールなどこれまで辿ってきた王道のみなさまの仕事を辿りつつ、一見確実に見える知識の裏側にあるものを考えていく作業。


医療現場で戸惑ったり、あいまいさを感じる部分について聞いたところ、患者の家族の立場から現代の医療に対する違和感について話す人がいたと思えば、その意見に対して、医師の方針がいかにして決まっていくかを医療のバックヤードから話す人がいる。するとそれにとどまらず、「実はそれに関連するの製品を病院に売っていて…」と、企業側の事情を話し出す人がいる。

これまでの講義で、医療人類学的な思考の前提を共有しているから、議論がうまく絡み合って、大変刺激的な90分だった。

さまざまな現役プロフェッショナルが集まる大学院ならではの授業の醍醐味。

医療って確実そうに見えるけど、実はものすごくあいまいな部分をはらんでいて、その中でみながそれぞれの立場から試行錯誤するんだけど、見ているメガネが違うから、すれ違っちゃったりする。

すれ違いが起こると、いばりんぼうの医師とか看護師とか、モンスターペイシェントとか、個人の性格に問題が帰されがちなんだけど、それが原因で問題が起こっていることってほんとはごく少数なんだろうな。


2015年12月22日火曜日

『大丈夫、死ぬには及ばない―今大学生に何が起きているのか』



大学教員を始めてから、「難しい学生とは距離を取りなさい」「専門家に任せなさい」というアドバイスを、経験のある先輩方から何度ももらった。それはそれで納得がいくところもありつつ、同時に強い違和感も抱いていた。

『大丈夫、死ぬには及ばない―今大学生に何が起きているのか』
稲垣諭著/学芸みらい社

「距離をとること」、「専門家に任せること」、それが教員のあるべき姿なのだろうか。私は、「難しくない学生」だけと向き合うべきなのだろうか。

授業が増えれば増えるほど、教員にとっての学生は、どうしてもone of themになってしまう。だから諸先輩方の言っていることもわからなくはなかったし、自分に「難しい学生」と向き合うだけの「スキル」と呼ばれるものがある自信もなかった。

(その「スキル」とやらが何かはよくわからないけれど)

『大丈夫、死ぬには及ばない』の読了後に一種のすがすがしさを覚えたのは、この本が、私が抱いていた違和感を肯定してくれたからなような気もする。


若者に日々ふれあう仕事をする人たちに、ぜひ目を通してほしい。


共同通信書評

2015年12月17日木曜日

手帳と継続の秘訣

スケジュールを何で管理するかでここ数年迷い続けた私がたどり着いた手帳がNOLTY 1392。Google calender、スマホのアプリ、はたまた手作りなど、どれをやっても飽きてしまい、「私は根気のないだめ人間?」と、軽く自己肯定感を下げたりしていたのだが、この手帳は3年目に突入した。私の中ではこれは結構なキセキである。

続いた理由は意外なとろこにあり、手帳の右下の切り取り線。
一週間終わるごとにこれを切り取っていくので、すぐに今週のページが開けて合理的。

でも続いた理由はそこじゃなくて、この切り取り線が与えるやりきった感。1週間終わるたびに切り取ることで、なんかたいそうなことをした気がする。(実際はたいそうなことは何もない。)もはやラジオ体操のハンコ状態である。(「そんなにあなたはハンコが欲しいの?」なんて間違っても聞いてはならないのである。)

一つのことを続ける人が苦手な人にはちょっと勧めてみたい手帳であることは間違いない。


NOLTY1392

2015年12月12日土曜日

子どものことがわかる人

多数派の当事者の言葉ほど、怖いものはないと思う時がある。

先日こんな話をある看護師さんから聞いた。

彼女はもう20年近いキャリアがあるベテランの看護師なのだが、子どもはいない。
彼女が小児科に勤めていた際、先輩の看護師が彼女にこんなことを言ったという。


「子育てをしたことのないあなたに、子どものことはわからないよね」


同じような話を小学校の教員からも聞いた。


「結婚をしていない先生に子どものことはわからない」


保護者からの言葉である。


なんてすごい暴力だろうと思う。


目の前のこの人が、不妊で悩んでいたり、結婚相手が見つからずに悩んでいるかもしれないなんてことを、子どもがいるこの方たちは想像もつなないのだろう。「思いやりをもちなさい」なんてしたり顔で自分の子どもにいっていないことを願うばかりである。


子どもに一切かかわったことがなければ、子どものことはわからないかもしれない。しかし子どもと常にふれあう場を職場としていれば、そこでのプロフェッショナリティーは確実に身に付く。その専門知の中には「親」が知りえない子どもについての知識も当然ながらあるだろう。


「子どものことはわからない」と子どもがいない大人に向かって言い放つ親は、知らず知らずのうちに「子どもがいる自分」を「子どもがいないあの人」よりもエライと思い、より多くを知っていると考えていることがみえる。


確かにその人たちは、自分の子どもについては、子どもがいない彼女達よりもわかっているのかもしれない。でも、子どもがいることは、「子ども一般」についてわかっていることでは決してない。 あなたの子どもは子ども全部の代表ではないのである。

親だったらより素敵な看護師とか、親だったらより素敵な教員、なんてシンプルな世の中ではないことは歴史が証明している。多数派の当事者がふるう何の気なしの暴力はたちが悪いし、恐ろしい。


ところでこの話には先がある。
その看護師の彼女、先輩に向かってこう言い返したのだという。


「子どもだったことはあります!」


その通りである。

2015年12月11日金曜日

猫のすごさ


後ろ足も毛がふさふさしていて、ただそれだけで、しかも意図せずに、癒しをもたらせるところ。

2015年12月10日木曜日

ストレスの正体

私たちの日常会話に欠かせないものになった「ストレス」。
心身の不調の原因を語る際に欠かせないものになった「ストレス」。

しかし「ストレス」は、その存在に対して科学的な証明があったり、その定義に関して専門家の「合意」があるわけではない。

「ストレス」という概念が一般的になったのは、第2次大戦以降であり、それが広がった原因は、その概念がさまざまな領域―動物と人間、近代化と人間、病気と人間…―をつなげる力があったからである。

ストレスに関する科学的な調査はたくさん出されているが、大元になっている概念が科学的でないことはよくあるお話し。

-参考文献:"Stress, Shock, and Adaptation in the Twentieth Century"