2018年2月19日月曜日

変化した日本人の「うんち観」(「からだのシューレ9」開催報告②-湯澤規子編)

からだのシューレ第9回目は、筑波大学の湯澤さん、リクシルの山上さんをお迎えし、トイレとうんちについて深く考えました。下は私が生まれて初めて作ったPVです。みんな、見て(笑)



うんこ漢字ドリルが爆発的な売り上げを上げている日本。
ですが、いまの私たちにとってうんちはうんちでしかなく、不要なものとして処理をする対象でしかありません。


ですがこの変化はこの1世紀くらいの間に起こった考え方の変化。日本人にとってうんちは長きにわたって、生活を支える大事な肥料だったのです。

「なぜ日本人はうんちを肥料とは思わなくなってしまったのか?」
第1部の山上さんからの問いを引き継いで湯澤さんのレクチャーが始まりました。



まず便所と糞の語源の説明から。

湯澤さん、うんちTシャツでノリノリのトークです。


便所には「くつろぐ場所」、糞には「ともに畑を耕す」という意味があるそうです。

便所は何とか想像がつきますが、「糞」は相手をけなすために使われたりしるので、そこに「ともに何かをする」という意味が込められているとはなかなか想像がつきません

慶長3年、江戸時代の資料

大正時代の記録

上の2枚の写真は、江戸時代と大証時代の資料から。大正時代に入っても、ナスや大根、沢庵とうんちが交換されていたのは驚きです!

また記録を紐解くと、お祝いの日の後の糞尿、身分の高い人の糞尿はより高い価値がつけられていたのだとか。確かにお祝いの後はいいものを食べていそうですし、身分の高い人のうんちの方が栄養価がありそうです。

殿様のうんちには多くの人が殺到したりしていたのでしょうか…。

そしてさらにさらに驚きなのが、うんちの利用は昭和に入っても行われていたということ。下の2枚の写真を見てください。
うんちをいかに科学的に有効利用するか。昭和初期の資料です。

昭和20年代もまだうんちは肥料として使われていた!

人口の増加により、うんちを肥料として使うべきか、廃棄するべきかという議論はすでに起こっていたということですが、肥料としての価値は認められ続けていたんですね。



湯澤さんによると、糞尿が廃棄物とされる動きが加速度的に進んだのは、第2次世界大戦後。

その背景には、GHQによる指導あるいは苦情(?)(人のうんちで育てた野菜なんて汚くて食べられない!)、添加物が食べ物に入ることによる糞尿の安全性への懸念、人口増加による糞尿の増加など複数の要因があるそうです。

いずれにしても私たちの「うんち観」はこの1世紀にも満たない間に作られた一時的な「当たり前」であることがわかります。

山上さん達の活動により、うんちはうんちでしかなかったケニアの人々の「うんち観」が変わったように、私たち日本人のうんち観ももしかすると近いうちに変わるかもしれません。

この後、山上さんはそのまま空港へ。湯澤さんはうんちTシャツのまま懇親会に出席されました(笑)


さて2か月に1辺のペースで9回にわたり開催してきた「からだのシューレ」。来月3月17日の第10回目を持って、しばらく充電期間に入ります。

最終回のテーマは「糖質制限」。いまやダイエットの常識となった糖質制限を通じ、食べることの当たり前を考えてみましょう。

お申し込みはこちらからです!

ケニアで作る循環型トイレと世界のトイレ事情ー山上遊編― (『からだのシューレ9』開催報告①)


雪とインフルエンザが猛威を振るう中開催された「からだのシューレーうんちとトイレが世界を救う?」(1月27日)。「胃袋の200年」の回で大好評だった湯澤さん、そしてケニアで水を使わない循環型トイレを作っている山上遊さん(リクシル)のダブルゲストでの開催です。




前回の胃袋Tシャツに続き、今回も登場しました-うんち&トイレTシャツ(笑)
もちろん湯澤さんのチョイスです。

まずは山上さんの紹介する世界の糞尿・トイレ事情。下の写真は、糞尿も混じるゴミ捨て場で金属片を拾おうとしている少女です。重い金属片下の方にあるため手を突っ込む必要があるのですが、彼女が手を入れるその場所は糞尿も溜まっている非常に不衛生な場所なのだとか。


 危なくて、一人ではとてもいけないようなトイレ。

国際支援の手が入り、トイレが建てられる場合もありますが、建てただけで帰ってしまう援助団体もおり、その場合、何かでトイレが使えなくなると、トイレはそのまま廃墟になってしまいます。


ひるがえって山上さんたちの活動は、作られたトイレが何かでいらなくなっても現地の人が自分たちで撤去できるトイレ、現地の人たちが自分たちの手で維持し続けることができるトイレを目指します。

山上さんたちが目指すのはそれだけではありません。最後に目指すところは、集められたうんちとおしっこを無害化し肥料に変えて、それによって作物を作物が換金できるようになること。まさに究極の資源活用です。

ところがプロジェクトの初めに山上さんたちがぶつかったのが、ケニアの人々にとってうんちはうんちでしかなく、それが肥料になるというイメージがまったくなかったこと。
うんちはうんちでしかない!
 そこでチームが行ったのが、「うんちは肥料になりますよ!」という教育をするのではなく、グループを作ってゲーム感覚でトイレを利用してもらい、うまくできたチームには賞品をだすなどして、楽しみながらその価値を感じてもらうことでした。

うんちとおしっこは処理が違うため分けて用を足す必要があります。

山上さんはこのトイレで集められ、無害化され、肥料となったうんちとおしっこを持ってきてくださいました。うんちはさらさら、おしっこもまったくそれとは思えない液体で、独特の匂いもありません。会場の皆さんも興味深そうに手にされていました。
うんちはうんちではなく、うんちはお金になる!
このように人々の排泄物に対する既成概念を変えることが、山上さん達の超えなければならない課題であったわけですが、ひるがえって日本はどうなのでしょうか?日本は以前は糞尿を大事な肥料として扱っていましたが、いまの私たちにそのような考えはありません。人の糞尿で作られた野菜なんてタダでもいらないという人は多いでしょう。

私たちに日本人の既成概念はどうしてこんなに変わってしまったのでしょうか?ここでスピーカーは湯澤さんにバトンタッチです。(続く)














『人工知能の哲学』松田雄馬

本が面白いかどうかは、その本がどんな「問い」を立てているかに尽きると思う。
松田雄馬さん著『人工知能の哲学』はまさに問いが面白い。

著者はドラえもん好きらしい。

情報工学の専門家として、さまざまな最新技術にふれ、「人工知能」や「AI」がバスワードのようにネットにあふれる中で、「そもそも知能とは何か?」と本書は問う。

情報工学の歴史を紐解き、人が人の知能とどのようなものと捉えてきたのかが分かりやすい例と共に解説される展開がスリリング。

あと生命という自分の専門外の分野に果敢に突き進み、そこから情報工学が達成した知能、達成できていない知能を考察しているところも面白い。

ただ一方でもう少し言及が欲しかったのが、「意味」についての部分。最後の最後でふれられてはいるが、他の部分ほどの掘り下げはない。

おそらく人文・社会学の研究者であれば、本著が人間の外側にある【客観世界】を自明のものとして想定しているように見えるところが引っかかるのではないだろうか。

文化人類学者の私から見ると知能は人間の中にあるのではなく、世界と個人の間にあるもののような気がする。この辺り、松田さんにぜひ直接聞いてみたい。
 


2018年2月3日土曜日

人間の攻撃:3類型


人は誰しも攻撃性があると思うのですが、その攻撃性は大きく3つに分けられるような気がしてきました。今日はそのタイプと対処法について考えてみましょう。


1.特攻型

不快感、嫌悪感をわかりやすく表出するタイプ。勝つか負けるかのタイマン勝負を挑んでくる。(が、この勝負は大抵の人に引き受けてもらえず、ただ嫌われるだけに終わる。)

2.召喚型

まず自分に同志がいるかどうかを確かめるタイプ。同士がいなければ攻撃を仕掛けないが、いるとわかると途端に仲間を引き連れて総攻撃を仕掛けてくる。積極的に集めるタイプと日和見タイプの2つが存在する。

3.毒盛型

相手に真摯に寄り添っていると見せかけて、毒を盛るタイプ。薬草の中に少量の毒を混ぜ込むので非常にわかりづらい。 


この類型はあくまでグラデーションです。実際は1つか2つのタイプを併せ持つ人が多く、何が合わさるかで攻撃の仕方にはバリエーションが生まれます。またどんな攻撃性をもった人たちが徒党を組むかで、集団攻撃の仕方にも変化が生じるため注意が必要です。


たとえば、「特攻型+召喚型」の人に攻撃されると、当然ながら集団からパージされる傾向が強くなります。しかし特攻型は「お前は人間として失格だ〜〜〜!」「一回死ね!」といった、わかりやすい攻撃をしかけるため、ハラスメントとして訴えるといった反撃も可能になります。しかしこのケースでは、王の下に複数の歩兵がおり、歩兵は証拠隠滅のために日々奔走していることを忘れてはなりません。対抗するには証拠隠滅に備えた知性が必要となるでしょう。

もしあなたが特攻型であれば、あなたも歩兵を集めて全面戦争に持ち込む、という選択もありえます。しかしこの場合、敗北した時のダメージは深刻で、最悪の場合、生き残った歩兵から思わぬ攻撃を受けるということにもなりかねません。全面戦争に持ち込むには相当の戦略と勇気が必要です。

ひるがえって「召喚型+毒盛型」の攻撃は相当陰湿です。「大丈夫?」「いつでも話を聞くよ」といった優しい言葉で近づいてくるのでつい心を許してしまいますが、実はあなたの知らないところで仲間を日々募っています。しかもその募り方は、「ほんとうはすごくいい人なんだけど…」といった、思いやりを装った攻撃なので、周りもそれが<絶賛仲間募集中!!>のしるしであることには気づきません。

攻撃がわかりづらいので、ハラスメントで訴えることはなかなかできず、やり方を誤ると逆ハラスメントで訴えられる可能性すらあります。対策は非常に困難ですが、気づいたら顔が緑になり、身体中によくわからないいぼができる病魔に襲われる前に(比喩ですよ)、薬草の中に混ぜ込まれる、「えもいわれぬ違和感」という名の毒に気付く力を身につけることが肝要になります。

最後に「特攻型+毒盛型」の合わせ技はほぼ見られません。なぜならこの水と油のような相反する類型なので、二重人格にならない限り、達成することは困難です。ですが自身の攻撃性を明確に自覚できる人のみこの2つを使い分けることが可能となります。

いっぽう、集団の中に特攻型と毒盛型の人間が共存することはままあります。たとえばリーダーが毒盛型で、部下が特攻型の場合、部下は「君の力が今こそ必要なんだ!」というおだてに鼓舞され、進んで突撃隊長を担います。うまくいけばよいですが、失敗した場合、全責任を負わされた挙句、あっさり敵に身柄を渡され、そのあと首をはねられます。勝利が必至。

リーダーが特攻型で参謀に毒盛型がいる部隊に攻撃されると悲惨です。リーダーのわかりやすい攻撃性を、参謀がわかりづらい形に巧みに変形するので、もちかけられた和睦は実は全面降伏だったというようなことが頻繁に起こります。部隊としてこの形は最強かもしれません。


さてあなたはどのタイプになりますか?


こんなこと考えたくもない?


そうですよね。わかります。


(もしかして続く・あるいは終わり)

2018年1月7日日曜日

4歳の歩き方から「生きる」を考えました



お正月に4歳の女の子と神社にわたあめを買いに行きました。
そんな中での発見です。

結論から言うとー

子どもは目的地につくことも大事だけど、目的地につくまでも大事。
でも大人は目的地につくことだけが大事。


まあ一言でいうと、着くまでにとにかく時間がかかるのです(笑)


  • 変わった草が落ちていたので拾ってみる。→そのために下を向いたら、近くに落ちていた葉っぱも気になるので、そのまま違う方向へ。→そっちはヤマダ電機の方角です!
  • 前から歩いてきたお友達に大きな声で挨拶する → 「こんにちは!!!」→そんな100デシベル超えるような声で話しかけたら、びっくりするでしょ。→実際びっくりしてた。
  • 少し高いところがあったので、そこに乗って平均台みたいにして歩く →まっすぐ歩いても遅いのに、そんなカニさん歩きしたら、あなたの速度は30m/分っ!!
  • 帰り道疲れてきたようなので、「抱っこしようか?」といったら→「もう4歳だから自分で歩くの」→「あなたのために」みたいなことを言いながら、「実際は抱っこして早く進んでしまえ」という魂胆があった罪深い大人をお許し下さい


最後は「(歩くの)ちょっと厳しいけどね」と言いながら、わたあめを左でにしっかり持って彼女は行きと帰りの計2時間近くを歩ききったのです。

一緒に歩いてみて思ったのは、彼女にとって家から神社までの道のりは線なんだってこと。

もちろんわたあめが買いたい!、早く帰って食べたい!っていうのはあるんだけど、出発から到着までの線はどこが大事でどこが大事じゃないとかではなくて、その線のどこも大事。彼女は分け隔てなく、たどり着くまでの世界をきちんとみて、面白いもの、楽しいこと、さわってみたいこと、にきちんと反応をして動いている。

一方、大人(代表ワタシ)はどうだろう。多分私たちにとってそれまでの道のりは、どうでもいいもの。家という点、神社という点が結びつけばそれでいい。その間は、できるかぎり効率的に進みたい。早ければ早いほどいい。

4歳の彼女にとっては線である世界が、その10倍の年齢である私には点と点の結び合わせに変わっちゃっている。

いつ私はこんな風になったんだろう。ずっと昔は彼女みたいに生きていたはずなのに。

私はスタートからゴールまでの道のりを線という世界で捉え、線の中で見える世界をきちんと感じることができているだろうか?
かっこよく・効率的にゴールテープを切ることだけがいつのまにか目標になっていないだろうか?

102cm・4歳の彼女からだいじなことを教えてもらったのです。