2016年2月7日日曜日

教えるは引き算

教えるは引き算。

はじめての教壇に早稲田で立ってから5年。教える場も変わり、これまでいろいろ試行錯誤を重ねてきたけれど、これだけは、変わらず残りそうな真実なだと思う。



「引き算」というのは、一番大事なことを伝えるために、いらないものをそぎ落としていくこと。

「足し算」というのは、一番大事なことにたくさんのことを接ぎ木していくこと。テーブル一杯のごちそうみたいな感じ。

「足し算」の方がお腹いっぱいになる。だけど、学生に残るのは、お腹いっぱいになったという事実だけ。何を食べたかはぼやっとしていてよく覚えていない。

「引き算」はお腹いっぱいにはならないけれど、何を食べたかの記憶ははっきりと残る。文化人類学という学問の余韻が残り続ける。

あれも大事、これも大事と、なんでもかんでも言葉にしてしまうことの怖さは、お互いの満足感だけ高くなってしまうことだと思う。教える側は、たくさん教えたという満足感。教えてもらった側は、たくさん教えてもらったという満足感。

でも学問はそんな満足感のためにあるわけじゃない。何を伝えられたか、何が心に消えないものとして残ったかが一番大事。

教員なり立てのころの私を振り返ると、とにかく詰め込む授業をしてしまっていたと思う。たぶん学生も、先生が熱くて、勢いがあって、なんかたくさん学んだという印象しかないんじゃないか。

足し算ではなく、引き算で行う授業を意識し始めてからの方が、私のキャラとか、勉強「量」とかの余計な印象ではなく、学生のそれぞれに文化人類学という学問の余韻を残せているのではないかと思う。

一方、教員としての経験を積む中で怖いなと思うのは、無駄にトーク力がついてしまったこと。準備不足でいまひとつ伝えるべきことが定まっていなくても、なんかそれなりにつくろえてしまう。そういう時の私は、絶対に「足し算」。相手が知らなそうなことを、あれもこれもと話すことで、立派なことを聞いたような気分にさせてしまう。キャリアを積むことの弊害だと思う。そういう授業をしてしまった日は一日気分が悪い。

 加えて、大学教員という肩書の怖いところは、その肩書だけで、相手を納得させる力があるということ。たいしたことを言っていなくても、「○○大学の教授」が話すだけで、それは立派なお言葉に変身してしまうことが多々ある。

私はまだ講師なので、そこまでのご威光はないけれど、もし私のポジションが准教授とか、教授とか、上がっていくことがあるのならば、「入れ物の威光」と「自分そのもの」をいっしょくたにしてエラくなった気になることだけは、絶対にしてはいけないと思う。

そうなったら、私の教え方は間違いなく引き算から、足し算になってしまうはずだろう。

足し算で教え始めたら、それは怠慢とおごり。

どれだけ経験を積んだとしても、私の肩書がどう変わったとしても、絶対に忘れないでいたい。